山車

仙波二郎安家の山車を紹介します

仙波二郎安家の山車を紹介します。 川越祭が開催される埼玉県川越市内には現在約30台の山車がありうち10台が埼玉県指定の文化財、一台が川越市指定の文化財となっているほか、
4台が市登録の歴史文化伝承山車になっております。

仙波二郎安家の山車                          人形作者:友永詔三  大工:岡本常次郎、福岡秀雄            彫刻師:岡本常次郎、友永詔三   見送り幕:松江まち          川越祭に参加する仙波二郎安家の山車は慶応年間から伝わる底抜け屋台がこの原型。地元の大工・岡本常次郎氏によって製作されたもので、今でも囃子台の軒にある龍、獅子、唐破風正面の鳳凰といった見事な大工仕事が残されている。 地元・福岡工務店の手で平成二年に回り舞台、四ツ車、舵棒つきの山車に改造。平成九年、友永詔三氏によって囃子台下のせいご台部分に十二支の彫り物が施された。 見送り幕は横浜の型絵染師・松江まち氏の作。そして平成十四年に町名にちなんだ仙波二郎安家の人形、二重鉾、迫り出し行燈型にして完成をみた。


仙波二郎安家とは

川越祭に参加する仙波町の山車の人形となっている仙波二郎安家は、鎌倉時代に活躍した武士である。まず、仙波氏が初めて現れるのは「保元物語」、保元元年(1156)の7月11日の条で源義朝に従い、崇徳上皇の白河殿、院の御所を攻撃している武蔵武士の中に、河越・金子・山ロ・岡部・齋藤氏などと共に、仙波七郎家信が活躍している。この保元の乱は、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟、関白藤原忠道と頼長兄弟の対立がからみ、上皇方は源為義・平忠正らの武力を頼み、天皇方はは源義朝(頼朝の父)・平清盛らの力を借り争った。これは院政の混乱と源平両氏をはじめ武士勢力の進出を示す事件であった。仙波七郎家信は、勝利した義朝軍に参加し盛んに活躍している。この家信の次男が《仙波二郎安家》である。彼は、「吾妻鏡」(鎌倉幕府の正史・日記でもある)の文治元年(1185)10月24日の条に、源頼朝が父義朝の供養のために建てた相模国勝長寿院の落慶供養に臨み、畠山重忠・金子家忠・熊谷小次郎と共に、西方の随兵として参加している。また「同書によると、建久元年(1190)11月7日には、平氏に勝利した源頼朝が六波羅(京都内)の新邸に向かうため、畠山重忠を先陣として、大井四郎大夫・山口小次郎家継・金子小太郎高範以下180名が随兵として参加した。その四番手として仙波二郎安家が参加している。この頃には、上級随員の地頭職になっていたと考えられる。また、同じ条に、仙波七郎の長子である仙波平太信平が次の後陣随兵として一番組で参加している。従って、兄信平は後陣随兵として、弟二郎安家は先陣随兵として、頼朝の入京に供奉し、兄弟で活躍している。随兵は何れも甲冑腹巻行縢を着け、弓を負い、正装を・した姿で行列に参加していた。仙波氏の館跡については、「堀ノ内」の地名がある、天台宗長徳寺ー帯とされている。雄々しく生き抜いた武蔵武士仙波二郎安家の面影を偲んで山車人形を制作したのである。

出典:川越市文化財保護審議会会長 小泉功氏、川越市文化財保護協会会員 小鷹邦夫氏 による 仙波二郎安家の山車 講演資料より